近代化産業遺産 那珂湊反射炉と登り窯

那珂湊反射炉

鎖国
鎖国の続く江戸時代も,文化年間に入るとロシアの軍艦や外国船が日本沿岸に船影を見せるようになりました。享和3年(1803年)7月には,米国船が長崎に,文化3年(1806年)9月にはロシア船が樺太に,文政6年(1823)6月には外国船が那珂湊・大洗沖1.6キロを約3時間侵犯しました。
特に,文政7年(1824年)5月28日の英国捕鯨船員12人による「大津浜上陸事件」は,朝廷と幕府の海防意識を一段と高めさせました。

大津浜上陸事件/北茨城市大津町
⇒藤田東湖や会沢正志斎ら230人が出動し,幕府も間宮林蔵ら40人を派遣した事件。
徳川斉昭
当時,江戸幕府の海防参与であった水戸藩第9代藩主「徳川斉昭」は,武装強化による国防の必要性を強調していました。このような状況の中,幕府から資金援助を受け,那珂湊の吾妻台に鋼製の大砲を造るための反射炉2基を築造しました。(安政2年(1855年)に1号炉,同4年に2号炉が完成)
反射炉はオランダの技術を用いたものであり,鉄を溶解させるため1500℃以上の高温に耐えられる耐火煉瓦で造られ,建造には南部藩の「大島高任」,薩摩藩の「竹下清右衛門矩方」,三春藩の「熊田嘉門宗弘」らの技術者を招聘して行われました。施行の棟梁は,那珂湊に住んでいた若干20歳の大工「飛田与七」が担当しました。

  大島高任
⇒幕末から明治初期の冶金(やきん)技術者。陸奥の人。安政4年(1857年)に釜石鉄鉱山(岩手県)に洋式高炉を建設し,日本近代製鉄業の基礎を築いた。
那珂湊反射炉
那珂湊反射炉には「耐火煉瓦」が約4万個使われ,地下からの高さは約21メートル(地上15メートル)の炉となりました。耐火煉瓦の原料には,栃木県馬頭町の粘土が用いられました。砲の成形には砂型鋳造の技法が用いられ,原型となる木型には松材が使われたと言われています。
現鉄は,鳥取の雲集鉄と岩手県釜石産の南部鉄であり,28門以上の砲身の長い大砲(カノン砲)が鋳造されました。 鋳造された大砲は円柱状で,柳沢の水車場で加工され,幕府(品川のお台場)へも献上されており,ここで造られた大砲は長州の萩や「伊豆韮山の反射炉」で造られた砲より性能的に優れたものとも言われました。

耐火煉瓦
⇒江戸で名人と言われた瓦職人福井仙吉らの製陶技術により,白色耐火煉瓦を焼結整形。

伊豆韮山の反射炉
⇒静岡県伊豆の国市にある,完全な形としては唯一現存する反射炉。国指定史跡。
破壊そして復元
那珂湊反射炉は,元治元年(1864年)10月の「那珂湊戦争」(元治甲子の乱)で破壊されてしまいましたが,昭和12年(1937年)に市内の篤志家により復元されました。その後、昭和43年に市指定史跡となり,平成16年11月25日に茨城県指定史跡となりました。

那珂湊戦争
⇒1864年10月9日〜10日の幕府征討軍と尊王攘夷派との戦い
大砲の性能 【データ】
所在地/ひたちなか市栄町1-10 あづまが丘公園内(那珂湊駅より徒歩5分)
管理者/ひたちなか市

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