| 虎塚古墳 (とらづかこふん) / 国指定史跡 | | 7世紀初頭に築造された墳丘長56.5mの前方後円墳。後円部の横穴式石室にはベンガラで幾何学文や武器・武具などが描かれた彩色壁画が良好に保存されており,春と秋に一般公開をしています。
所在地/ひたちなか市中根指渋3494-1 |  |
| 十五郎穴 (じゅうごろうあな) / 県指定史跡 | | | 古墳時代末期から奈良時代に築かれた横穴墓群。これまでに百数十基が確認され,総数は300基を越えると推定されています。いくつかの支群に別れて営まれ,館出支群34基を指定しています。 |  |
 | 中生代白亜紀層 (ちゅうせいだいはくあきそう) / 県指定天然記念物 | | 平磯海岸から磯崎海岸にかけて見られる岩場。この岩場は約6,500万年前の中生代白亜紀時代の地層で,岩の中から,アンモナイト,ウニ,二枚貝,サメの歯そして翼竜の骨などの化石が発見されています。アンモナイトの発見は,茨城県内最初の中生代地層の発見ともなり,全国的にも,古生代以後の研究にとって貴重な存在となっています。
所在地/平磯町から磯崎町にかけての海岸線
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 | 酒列磯崎神社の樹叢(さかつらいそざきじんじゃのじゅそう) / 県指定天然記念物 | | 酒列磯崎神社があるこの地は,椿山とも呼ばれ,椿が密生していたと伝えられています。 境内の長い参道の両側は,種々の古木が高く枝を広げ,温帯自然林に海岸植物が混入した独自の自然林を形成しています。常緑広葉樹の自然林であり,非常に特徴的な景観をつくっています。
所在地/ひたちなか市磯崎町東の4
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 | い賓閣跡 (いひんかくあと) / 市指定史跡 | | い賓閣は元禄11年(1698)に徳川光圀が建てたものであり,湊御殿,お浜御殿とも呼ばれていました。ここでは,歴代の藩主によって,しばしば宴会や詩歌の会が催されていたといわれております。 しかし,い賓閣は元治甲子の乱(1864)で焼失し,その跡は,あれはてたままであったが,明治30年に湊公園として整備,保存されました。この高台の東方には,海防見張番(異国番所)もおかれ,御水主人の人々が,常に海防の任にあたっていたのです。
所在地/ひたちなか市湊中央1-1 |  |
| 湊御殿の松 (みなとごてんのまつ) / 市指定天然記念物 | | 湊公園にある枝ぶりのみごとな黒松。むかし,徳川光圀が須磨明石から移植したといわれています。湊公園は一名を海の見える「松の公園」ともいい,特に中秋のとき,松樹をとおして見る洋上の月は格別です。
所在地/ひたちなか市湊中央1-1 |  |
| 山上門 (さんじょうもん) / 市指定有形文化財 | | 山上門は,もと水戸藩小石川邸の正門右側にあり,勅使奉迎のためにとくに設けられたものです。幕末には,佐久間象山,横井小楠,西郷隆盛,江川太郎左衛門,橋本左内などの天下に名だたる人々が,この門を出入りしたといわれています。門は,後に小石川邸の山上に移されたので山上門といわれるようになりました。 昭和11年に原形のまま那珂湊へ移されました。
所在地/
ひたちなか市栄町1-10 |  |
| 反射炉跡 (はんしゃろあと) / 県指定史跡 | | 文政6年(1823)ごろから,那珂湊沖にもしばしば異国船が出没するようになりました。水戸藩では早くから国防の必要を唱えていましたが,とくに徳川斉昭は熱心で,那珂湊の吾妻台に反射炉をつくり,鉄の大砲を鋳造することにしました。反射炉とは高熱で鉄をとかす熔鉄路のことです。 ここで鋳造した大砲は,28門以上,各地の砲台(台場)へすえつけられたり,また幕府へも献納されて,大いに国防の役目をはたしました。反射炉は元治甲子の乱(1864)に破壊され,昭和12年に現在の反射炉模型が建てられました。
所在地/ひたちなか市栄町1-10(あづまが丘公園内) |  |
| 水門帰帆 (みなとのきはん) / 市指定名勝(工芸品) | | 天保4年(1833),徳川斉昭は,藩内の景勝の地8ヶ所をえらび,仙湖の暮雪,青柳の夜雨,村松の青嵐,太田の落雁,山寺の晩鐘,広浦の秋月,磐船の夕照,水門帰帆をもって水戸八景としました。 水門帰帆の碑は,天保5年に建てられたもので,隷書の文字は斉昭の書です。また文字の彫刻は,湊村の石工である大内石了の手になり,使用されている石は,多賀山系真弓山から産出する寒水石(大理石)です。 水門帰帆からは,那珂湊漁港を通し,太平洋を望むことができます。
所在地/ひたちなか市和田町2丁目
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| 観濤所 (かんとうじょ) / 市指定名勝(工芸品) | | 観濤所の由来について,次のような話があります。 かつて,水戸藩の彫刻家海野美盛が,波に千鳥を彫った鍔を,徳川斉昭の上覧に供したのです。すると斉昭は,その見事な構図におどろき,このような高い波の形はおそらく想像によるものであろうと美盛に問われました。美盛は,決して想像ではなく,平磯村磯崎付近の写生をもとにしたものであると答えました。やがて斉昭は磯崎へ来て,その聞きしにまさる景観を激賞し,藩内随一の波浪のみどころとして,観濤所と命名したのです。そして水戸八景の番外として観濤所の碑を建てたのです。
所在地/ひたちなか市磯崎町入道3602
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| 比観亭跡 (ひかんていあと) / 市指定史跡 | | 寛政2年(1790),この地の土風を水戸藩随一として好んだ徳川治保により建てられました。 眼下には,磯崎漁港を見下ろし,前方には果てしない太平洋が開け,北は阿字ヶ浦海岸を通し常陸那珂港を望むことができます。
所在地/ひたちなか市磯崎町東の4
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