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慶長5年9月15日(1600年10月21日),美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ヶ原町)で起きた「天下分け目の戦い」。
豊臣秀吉の死後(慶長3年8月伏見城で死去),政権を巡って争われた徳川家康を中心とする東軍と石田三成を中心とする西軍の決戦であり,この戦いで勝利した家康は政権を握ることとなりました。
慶長8年2月12日(1603年3月24日),徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府が開かれたのを始まりとします。(江戸幕府)
幕府は徹底的な政局安定策をとり,慶応3年10月14日(1867年11月15日)に大政奉還するまでの264年間という長期政権を確立しました。この長きにわたる平和状態を「泰平天下」ともいいます。

水戸徳川家は常陸国水戸(茨城県)にあり,徳川家康の11男「徳川頼房(よりふさ)」を家祖とし,徳川氏の一支系で徳川御三家のひとつであります。徳川御三家とは,水戸徳川家のほかに,尾張徳川家(愛知県西部),紀州徳川家(和歌山県・三重県)があります。
江戸時代を通じ水戸藩を治め,水戸家の当主は将軍の補佐役であり,参勤交代(大名が江戸に一定期間交代で参勤した幕府の大名統制の制度)せず,江戸定府の例でした。
水戸徳川家からは将軍は出さない原則でした。しかし,一橋徳川家(徳川将軍家に後継ぎがないときは他の御三卿とともに後嗣を出す資格を有する,将軍家の「家族・身内」)の養子に入っていた水戸藩第9代藩主「斉昭」の子である「慶喜」が第15代将軍になることにより,江戸幕府最後の将軍を出すことになりました。これは、あくまで一橋家から将軍を出したのであり,水戸家から将軍を出したわけではないとされています。

初代藩主「頼房」−2代藩主「光圀」−3代藩主「綱條」−4代藩主「宗堯」−5代藩主「宗翰」−6代藩主「治保」−7代藩主「治紀」−8代藩主「斉脩」−9代藩主「斉昭」−10代藩主「慶篤」−11代藩主「昭武」
生誕:寛永5年6月10日(1628年7月11日)
死没:元禄13年12月6日(1701年1月14日)
水戸藩初代藩主「頼房」の3男であり,「徳川家康」の孫。水戸黄門として有名だが,実際に諸国を漫遊したという事実はありません。
光圀は学者肌で非常に好奇心の強い人物であったといいます。日本の歴史の中で光圀が初めて食べたとされるものは,「ラーメン」,「餃子」,「チーズ」,「牛乳」,「黒豆納豆」があります。また,オランダ製の「靴下」を着用したり,ワインを飲むなど西洋の物に興味を示していました。
元禄3年(1690年)に藩主の座を退き,翌年に西山荘(茨城県常陸太田市)に隠居。墓所は茨城県常陸太田市瑞龍山にあります。
◆大日本史:明暦3年(1657年),光圀が彰考館(史局)を置いて自ら監修を務めてから,明治39年(1906年)に10代藩主慶篤の孫にあたる徳川圀順が完成させるまで250年の歳月を要した日本の歴史書。

生誕:寛政12年3月11日(1800年4月4日)
死没:万延元年8月15日(1860年9月29日)
江戸時代末期の水戸藩第9代藩主であり,江戸幕府第15代(最後)の将軍「徳川慶喜」の実父。
藩政では藩校である「弘道館」を設立し,下士層から広く人材を登用するなど藩政改革を実施しました。斉昭の改革は,水野忠邦の天保の改革に示唆したといわれています。
嘉永6年(1853年)6月のペリー浦賀来航に際し,海防参与として幕政に関わり強硬な攘夷論を主張しました。安政2年(1855年)軍制改革参与に任じられるが,開国論に対し反対し,開国を推進する井伊直弼と対立。安政5年(1858年)に井伊直弼が大老となり日米修好通商条約を独断で調印したことや,将軍継承問題を巡り,安政6年(1859年),越前藩主松平平慶永と尾張藩主徳川慶恕,そして実子で一橋家の当主一橋慶喜らと江戸城無断登城の上で大老井伊直弼を詰問したため,逆に直弼から永蟄居を命じられました(安政の大獄)。
◆弘道館:水戸藩の藩校として「斉昭」により天保12年(1841年)8月に創設。藩士に文武両道の修練をつませようと武芸一般をはじめ,医学・薬学・天文学・蘭学など幅広い学問をとり入れた,いわば総合大学というべきものでありました。当時の藩校としては国内最大規模であり,弘道館建学の方針を示す弘道館記の内容や学校教育の特色によって天下に有名になりました。第15代将軍「慶喜」も父「斉昭」の厳しい教育方針で5歳の時から弘道館において英才教育を受け,さらに慶応3年(1867年)の大政奉還の後,謹慎した至善堂が今も残っています。現在も一部分が保存され旧弘道館として国の特別史跡になっているほか正庁・至善堂・正門の3ケ所は重要文化財に指定されています。
◆偕楽園:金沢の兼六園,岡山の後楽園とならぶ「日本三公園」のひとつで,天保13年(1842年)に「斉昭」によって造園されました。領内の民と偕(とも)に楽しむ場にしたいと願いが込められており,現在,約13haの園内には約百品種・三千本の梅が植えられ,早春には全国各地からの観梅客で賑わっています。
◆那珂湊反射炉:江戸幕府の海防参与であった「斉昭」は,武装強化による国防の必要性を強調していました。このような状況の中,外国諸国に対抗するため,幕府から資金援助を受け,那珂湊の吾妻台に鋼製の大砲を造るための反射炉2基を築造しました。安政2年(1855年)に1号炉,同4年に2号炉が完成。
反射炉とは,火炎を炉内で放射させ高温を効率的に保ちながら加熱して,鉱石や金属を溶解する炉のことです。
◆水戸八景:天保4年(1833年),「斉昭」が江戸小石川邸より水戸に下り,領内を巡視し藩内の景勝の地8箇所を選んで選定したものです。【村松晴嵐,太田落雁,山寺晩鐘,青柳夜雨,仙湖暮雪,広浦秋月,
巌船夕照,水門帰帆】

生誕:天保8年9月29日(1837年10月28日)
死没:大正2年(1913年)11月22日
江戸幕府第15代(最後)の将軍で,将軍在位は1866年から大政奉還により明治天皇に政権を返上した1867年まで。
西洋の物に関心があり,パンやミルクを好み,カメラでの写真撮影,油絵,釣り,自転車,碁,将棋,手芸などの趣味を持っていました。
父「斉昭」と水戸学の影響を受けながらも,現実主義で強かな政治家でした。若い頃から英邁さで知られ,父「斉昭」の腹心である安島帯刀は,「慶喜」を「徳川の流れを清ましめん御仁」と評し,幕威回復の期待を一身に背負い鳴物入りで将軍位に就きました。「慶喜」の英明は倒幕派にも知れ渡っており,特に長州藩の桂小五郎は「一橋慶喜の胆略はあなどれない。家康の再来をみるようだ」と警戒していました。
◆大政奉還:幕末の慶応3年旧暦10月14日(1867年11月9日),「慶喜」が朝廷(天皇)に対して大政(統治権)を奉還した事件。薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結び倒幕運動を推し進めていた幕末も大詰めの時期,公議政体論を主張し将軍の政権返上を政治路線として考えていた土佐藩(高知県)は,慶応3年(1867年)10月3日に「慶喜」に大政奉還の建白書を提出しました。慶喜は京都二条城に在京諸藩の藩主・家老職を招集し,そこでの会議で大政奉還の上奏文の提出を決定し,11月9日(旧暦10月14日)に朝廷へ上奏文を提出しました。そして翌11月10日(旧暦10月15日),朝廷は上奏文を許可し大政奉還が成立しました。

江戸時代に舟運で大いに栄え多くの豪商を出し,幕末には海防の要所でもあった那珂湊(現在のひたちなか市)には,水戸徳川家ゆかりの史跡や景勝地が多く残っています。
湊御殿の松
第2代藩主「光圀」が,須磨明石(兵庫県明石市)から移植した黒松。現在,枝ぶりの見事な松が12株育成しています。
ここは,太平洋と那珂川を望む高台にあり「湊公園」として市民に愛されています。
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金龍水松影ノ井戸
湊公園のふもとにある,徳川光圀が名付けた井戸です。 |
水門帰帆(水戸八景)
天保4年(1833年)に第9代藩主「斉昭」により選ばれた「水戸八景」のひとつ。
和歌:雲のさかいしれぬ沖に真帆上げて みなとの方によするつり舟
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観濤所
聞きしに勝る藩内随一の波浪のみどころとして,第9代藩主「斉昭」により観濤所と命名。
松が生茂る小高い丘から,磯に荒波が打ちつける光景を望むことができます。
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那珂湊反射炉跡
第9代藩主「斉昭」により築造された大砲鋳造施設。ここで造られた大砲は各地の砲台へ据え付けられ,幕府(お台場)へも献上されました。
≫近代化産業遺産
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山上門
もと水戸藩小石川邸の正門右側にあり,勅使奉迎のためにとくに設けられたものです。幕末には,佐久間象山,西郷隆盛などの天下に名だたる人々が,この門を出入りしたといわれています。。
昭和11年,原形のまま那珂湊へ移築されました。
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